公文書を蔑ろにする過激派

問題となっている陸上自衛隊イラク派遣時の日報について、何と昨年の
3月の時点で自衛隊はその存在を確認していたことが明らかになった。

自衛隊防衛省の隠蔽体質もさることながら、当時の防衛大臣であった
稲田朋美の責任も問われる
報告が上がってこなかったのだから、稲田に非はない、ということではない。
稲田は2月22日の国会答弁で、
「日報の存在について確認をしたところ、見つからなかった」
とはっきりと述べている。
「確認が取れていない」とか「精査中」という表現ではない。
「確認をした」上で、「見つからなかった」と答えているのだ。
自衛隊が日報の存在を確認するよりも前に、稲田は日報の存在について
否定しているのだから、虚偽答弁である可能性がある。

「ある」ものを「ない」と行政側が軽々しく発表してしまうのは、
これが初めてではないことは周知の通りである。

陸上自衛隊南スーダンPKOの日報
「廃棄した」と言われていたが、電子文書として残っていたのが見つかる。
「戦闘行為」に言及した一文が存在していると言われている。

厚生労働省裁量労働制に関する調査データ
元の「データ文書」は「ない」と言われていたが、見つかる。
裁量労働制を推す根拠が崩れる。

文部科学省に宛てられた「総理のご意向」文書
菅義偉官房長官は「怪文書」と足蹴にしたが、前川喜平前文科省事務次官
会見により、その存在が肯定された。

財務省の森友問題との交渉文書
改竄前の文書は「ない」と言われていたが、見つかる。
その文書には、複数の政治家や安倍昭恵の名前が記されていた。

パッと思いつくだけで、この1年間で5件もの重大な「公文書問題」が
明らかにされている。
また、森友問題のみならず、多くの情報公開請求において、公開された
公文書がことごとく黒塗りされている(いわゆる「のり弁」)という
状況が当たり前になっている。

これが「自称先進国」の日本の有様である。
公文書管理とその情報公開の徹底は、民主主義の根幹である。
ベースとなる情報が明らかにされない、もしくはそれが改竄されていたと
なれば、真っ当な議論が不可能だからだ。
議論が拒否されれば、今の政治が適切かどうか、チェックすることも
できない。

ジャーナリストの青木理氏によると、日本が敗戦を迎えた後、
時の官僚は「不都合な公文書」をせっせと処分していったのだという。
国を存亡の危機にまで追い込んだ大東亜戦争の失敗の経緯は、
反省の糧として後世に残すのが当然である。
しかし、目先の「保身」だけが優先されて、重要な公文書は処分されて
しまった。

上で挙げた「公文書問題」では、処分にまでは到っていないというのが
不幸中の幸いではあるが、そもそも公文書というものを蔑ろにしている、
という意味においては戦後直後と状況は同じである。
少なくとも戦後の日本人は、公文書に対する意識は相当に低く、
そのまま現在に到ってしまったのだ。

数年前、アメリカ大統領候補であったヒラリー・クリントン氏の
「私用メールアドレス流用問題」が報じられた。
多くの日本人は、この問題は「ヒラリーの公私混同」が責められている
のだろうと考えていた。
しかし、当のアメリカ人の感覚は違った。
私用メールアドレスを使って公務を行っていたならば、そのメール文書が
公開されない可能性がある、ということを問題視していたのだ。
アメリカでは、そしてヨーロッパでも、政治家や公務員が作成した文書は、
全てが100%の状態で公開されてしかるべき、
という考えが当たり前に
なっているのだ。

一方で日本では、「森友・加計問題」が紛糾していた時に、
ワイドショーのコメンテーターが
「メモの類いまで公開しなければいけないのならば、政治家や公務員は
仕事ができなくなる」

と述べていた。
欧米と日本との意識の差は歴然である。

これまた青木氏の情報だが、アメリカでは政治家の発言は、議会の議事録のみ
ならず、テレビ番組や記者会見におけるものまで全てテキストデータとして
保存されているらしい。
これは、聴覚障害者のために、発言内容を即座にテロップ表示するシステムが
開発されており、そのテロップがテキストとして落とし込められている
のだという。
もちろん、そのデータはネット上で公開されているので、アメリカの政治家の
発言は全て検索することが可能
なのだ。
いまだに隠蔽体質がはびこる日本では、この情報公開の有用性については
想像すらできないだろう。

元々、日本人は政において議論を重視してきたのだから、自己保身を優先
させて情報を隠蔽したり改竄するというのは、伝統からは外れているはず
である。
安倍夫妻を守るために議論を退ける、というのも、本来の日本人の姿では
ないだろう。

現政権を擁護している人間は、自身が民主主義を否定しているということを
自覚すべき
である。
そういう人間は、日本国よりも安倍夫妻の存在の方を優先させている
「非国民」であり、日本の伝統からは外れた過激派なのだ。