『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』の欺瞞と不徳(その3)

前回および前々回までの『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』に対する批判は、
雁谷氏が提示したデータや論拠の不足を指摘したものだった。
しかし、今回は私個人が「心情的に許せない」という内容に触れる。
これがなければ、わざわざブログで批判を展開しようとまでは思わなかった。
私は完全に雁谷氏を人間として軽蔑することにしたので、これ以降は「雁谷」と
呼び捨てで表記する。


本書において「鼻血問題」についてコメントしているのは第3章までで、
分量的には全体の3分の1に過ぎない。
第4章と第5章が福島における現地取材ルポ、第6章は放射線の危険性についての
専門的な解説だ。
ここまでならば、全く「鼻血問題」の解決にはなっていないのだが、
日本の原発問題について雁谷が警鐘を鳴らしたのだ、と解釈は出来る。


しかし、第7章のタイトルに驚かされる。
何と、「福島の人たちよ、逃げる勇気を」だ。
本文をやや長めに引用しよう。

福島の人たちよ、福島から逃げる勇気を持ってください。
どうしても逃げられない事情のある人もいるでしょう。
しかし、自治体の圧力や、周囲の人間関係で逃げられないと思っている人たち
には「勇気を出してください」といいたいのです。
周囲の人間関係は、本当にあなたにとって、大事なものですか。
(中略)
自治体は、絶対にあなた方を守りません。自治体を信用してはいけません。
福島の人たちよ、自分を守るのは自分だけです。

美味しんぼ』の「福島の真実編2」の最終話でも、同様のメッセージが
主張されていたらしい。


実際、この内容は福島の取材でお世話になった方々を裏切ることになるのでは、
と考え、書くかどうか相当に迷ったという。
しかし、最終的には読者に「真実」を伝えるべきだ、という判断に至った
のだそうだ。


また、こんな記述もある。

大事なのは「土地としての福島の復興」ではなく、
「福島の人たちの復興」であると考えています。
土地より、人間の方が大事です。

これも『美味しんぼ』で、海原雄山のセリフとして描かれている。


「人間の方が大事」と考える理由として、雁谷はこのような例え話を
持ち出す。

ここに、二〇〇〇年の伝統のある立派な家があって、あなたは先祖代々
住んでいる。
(中略)
しかし、いったんその家が火事になり、燃え上がったら、それでもあなたたちは
その家の中に留まりますか。
どんなに伝統があって愛着のある家であっても、その家が燃え上がって
自分たちの命が危ないとなったら、逃げ出すのではありませんか。


これらの文章を読んで、私ははらわたが煮えくりかえった。
「勇気」さえあれば、福島県民が福島から逃げられる、という認識。
「土地より、人間の方が大事」という認識。
福島の土地を「伝統のある立派な家」と同列に論じる認識。
全ては、現場を知らない人間が、頭で考えた「正義の刃」を振り回している
だけにすぎない
と思った。


雁谷はあくまで被災者に寄り添い、彼らのために上記のようなメッセージを
発しているのだろう。
しかし、それが結果的には主に社会的弱者である被災者を追い詰めているだけだ、
という事実に全く気づいていない。


そもそも雁谷は取材において、仮設住宅を訪問していない。
本書に全く記述がないので、間違いないだろう。
つまり、「食の生産現場」の声は聞いているが、「生活の現場」の実態について
リアルな情報は知らないはずである。


震災から5年経過していまだなお仮設住宅に残っている(残らざるを得ない)
被災者の事情に無頓着だ。
単純に人間関係に束縛されていて、勇気さえあれば現状から脱出できると
考えている。
恐らく、仮設住宅の次の段階である復興公営住宅については、
存在自体も知らないに違いない。
つまり、経済的に自立して、ひとまずマンションを借りて生活を始めた
被災者と、仮設住宅や復興公営住宅に暮らす被災者との差についても
分かっていない。


端的に言うと、自立できていない被災者の6割以上は高齢者か病人である。
彼らの介護や世話をするための家族や近親者も含まれるだろう。
病人の中には、鬱病患者もかなり含まれているものと思われる。
一時、仮設住宅居住者の2割が鬱病患者、というデータがあったが、
潜在的にはもっと多いだろうと言われている(鬱病と診断されたくない受診者が
努めて明るく振る舞うことがあるため)。


先ほど、「社会的弱者」という表現を用いたのは、こういった事情による。
経済力がないだけでなく体力も衰えている上、未来への希望を感じられない
という被災者が確実に存在する。
そんな人たちには「頑張れ」と声をかけることすら憚られるのだが、
雁谷は「勇気を出して福島から逃げよう」と言っているのだ。
これほど残酷な言葉があるだろうか。
無知というのは恐ろしいものだ。


また、「土地より、人間の方が大事」という考え方にも私は大いに反発する。
仮に、本当に福島県民が土地を捨ててしまえば、福島県福島県でなくなって
しまう。

「福島」という地名だけが残り、その土地の文化はほとんど消滅してしまう
だろう。
福島県民という誇りやアイデンティティもなくなり、それを受け継ぐ者も
いなくなってしまう。
一つの県がごっそり消えてしまうのだ。
それでも雁谷は、「福島の人たちの復興」の方を重視する。
将来的には、その人たちはもはや「福島の人たち」ではなくなってしまう
かもしれないのに。


そもそも雁谷は福島の文化が好きだ、と第4章で述べている。
食文化だけでなく、県民の優しい性格、福島弁や福島の民謡の響きなどに
魅せられているという。


しかし、上で述べたとおり、県民が土地を捨てれば文化は消滅する。
伝統の連続性や共同体の一体感が失われると、文化を受け継いでいく
必然性がなくなってしまうのだ。
それを雁谷は理解していないのだろうか。
放射線量が低下してまた人が住めるようになれば、文化はいくらでも
再興できると思っているのだろうか。


多くの伝統が根付いた福島県を、「伝統のある立派な家」に例えている、
というところに雁谷の浅い考えが見て取れる。
具体的に言うと、無形文化財有形文化財を一緒くたにしているのだ。
どちらも保存や保護が必要だが、有形ならば仮に破損しても修復が可能だし
焼失しても復元することが出来る。
オリジナルには及ばないとはいえ、それでも人間は諦観の気持ちで
愛着を感じることが可能だ。
しかし、無形文化財が失われれば、復元することはまず不可能である。
愛着を感じる「対象」すらなくなるので、人々の記憶から永遠に消え去るのだ。


こういった考え方は、欧米風の近代合理主義や唯物論に毒されている人間には
理解できないのかもしれない。
また、雁谷は歴史の浅いオーストラリアに在住しているため、
日本における地域ならではの文化が、長い伝統や共同体と不可分の関係にある、
ということも分からないのだろう。
何しろ、自身が日本社会が嫌になってオーストラリアに飛び出したのだから、
福島についても「問題があれば、出ればよいではないか」という短絡的な
発想が簡単に出てくるのかもしれない。


もちろん、「考える」のは自由である。
しかし、メッセージとして発表するとなると、そこに問題はないか、
熟慮する必要がある。
そのためには、メッセージそのものだけではなく、自分自身の発想法や
論理展開を客観的に検証することが求められるし、メッセージの宛先側(この場合
福島県民)の考え方も取り込んで比較検討することも重要だ。


そういった謙虚な姿勢というものが、本書には一切感じられない。
元よりブログで「鼻血ごときで騒いでいる人たちは、発狂するかも知れない」
と大口を叩いていた人である。
「事実を教えてやろう」という傲慢な態度が滲み出ている。
本書は一転して、「です・ます調」の丁寧な文体を用いているが(この辺の
変わりっぷりに小者感が感じられるが)、結局は「私の言うことを信じて
もらうしかありません」の一点張りに終始しているので、やはりどこかで
読者――というか、日本国民全体だろうか――を下に見ている感じがする。


実は、雁谷のこういったスタンスは、今に始まったことではない。
美味しんぼ』の知名度が上がり、社会的影響力が増したあたりから、
雁谷が考える「正義」やそれにまつわる「知識」を読者に「教えてやる」作品に
堕してしまったのだ。
当初の「食文化を取り上げたエンタメ」としての面白さは失せてしまい、
雁谷の独りよがりが目立つようになった。
私が『美味しんぼ』に見切りを付けたのは、このためである。


また、本書は雁谷の「不十分な取材から独自の結論を捻り出してしまう」
という手法を露わにしてしまった。
「結論」を厳密に検証することもなく、参考文献も自分好みの内容の本を
少し読んでいるだけだ、ということが分かってしまった。


これは即ち、『美味しんぼ』の情報の信頼度が一気に暴落した、
ということを意味する。

本書を読めば、「面白く読んでいた頃」の『美味しんぼ』すらも、
この程度の薄い知識をベースに書いていたのか、と落胆してしまう。


全ては、自業自得。
リスクを冒して自分なりのメッセージを出したのだから、信用が失墜しても
文句は言えないだろう。


雁谷は日本では「脱原発」や「原発の危険性」には言及できないほどに
情報統制されている、と本気で信じ込んでいる。
だから、自分が言わなければ、と妙な義務感に駆られたようだ。
しかし、原発問題を論じたまともな書籍はいくらでも存在するので、
これからそういった方面の知識を付けていこうと思う。