性的快感に取り憑かれているネット民

羽鳥慎一モーニングショー』で知ったのだが、池袋の暴走事故の容疑者が
逮捕されていないのはおかしい、元官僚だから特別扱いしているのでは
ないか、とネットで物議を醸しているらしい。
実にバカバカしい話だ。
番組でも伝えていたが、あの事件で容疑者も負傷しており、すぐに病院に
搬送されたので、逃亡や証拠隠滅の恐れがないのは明らかであり、
事件の解明には容体が回復してから取り調べをする方が良い、と判断した
から逮捕する必要がないだけである。
事情聴取が任意で行われている、という点に疑問を呈する向きも
あるらしいが、警察が「逮捕」という強制力を発動させていないので、
「任意」という表現になるだけだろう。


過失運転致死傷罪で警察は捜査しているのだから、警察内部での取り扱いは
「被疑者」である。
だから、マスコミが「容疑者」という表現を用いないのには違和感が
あるが、「容疑者」自体がマスコミ用語なので、何らかの内規が
存在するのだろう。
そこまで目くじらを立てることではない。
「上級国民」だから特別扱いしているのだ、というのは、
まさにゲスの勘ぐりというやつだ。
捜査が進めば、危険運転致死傷罪への切り替えだって有り得るだろう。


こういうことは、少し考えれば分かることだし、知らないことは
調べればよい。

ところが、ネット民はそれをしない。
一方的に「不謹慎狩り」をして楽しむ方を優先するのだ。


先日、中野信子著『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』
幻冬舎新書
という本を読んだ。
それによると、「不謹慎」や「不適切」を糾弾して得られる快感の
ことを、脳科学の用語で「シャーデンフロイデ」と言うらしい。
人間は組織や集団の秩序を保ちたいという本能がある。
そのため、その秩序を壊そうとする人間に対しては、憎悪の感情が
芽生える。
これは必ずしも犯罪行為に限ったことではない。
何らかの分野において優秀な能力を発揮する人間、あるいは大したことが
できるわけではないのに何故か他者から愛されてしまう人間などに
対しても、「妬み」の感情が高じることによって、糾弾の対象に
なってしまう。
そういう人間を引きずり下ろしたり、非難することによって、
自分の足下を固めておいて満足感を得る、というのが
シャーデンフロイデ」のメカニズムであるらしい。


本来、こうした糾弾や非難には、リスクが伴うものだった。
相手に対する攻撃は、下手をすれば自分に降りかかってしまう可能性が
あったからだ。
だから、そういったネガティブな感情が内部に湧いてきたとしても、
そう簡単に発露するものではなかった。
しかし、現在のネット環境はそれを変えてしまった。
匿名で発信できるので、自分が反撃されるリスクがほぼゼロだからだ。
もし自分が炎上したとしても、そのアカウントを削除してしまえば
それ以上のダメージを防ぐことが出来る。
アクセスブロックという手段もあるだろう。
そのため、SNSをはじめとするネット環境は、「シャーデンフロイデ」の
温床になってしまった。


池袋の事件に限らず、日々伝えられるあらゆるニュースに接して
「不謹慎狩り」を行うネット民は多い。
彼らは自分たちの秩序を守るために「不謹慎狩り」を行っている
のではない。

シャーデンフロイデ」の快感を得るためにやっているのだ。
その快感は、性行為で得られるものと同質なのだそうだ。
つまり、彼らは性的快感に取り憑かれて、「不謹慎」や「不適切」を
叩きまくっているのである。

まるで理性の無いサルではないか。


そういうお前はどうなのか? と問われることにもなるだろう。
このブログの最初の方で、かつて私はネトウヨぶりをこじらせていた、
と書いている。
それ以外にも数々の愚行を犯している。
今になって振り返れば、ネット環境、ひいてはパソコンという道具は、
きちんと自制しながら使用しないと、実に簡単に人間の理性という
ものを奪い取ってしまうものだ、ということを痛感させられる。


今後、折に触れて、自分の数々の失敗談を、このブログで紹介して
いく予定である。
匿名なので、恥を忍んで、というほどのことではない。
いまだネット界にうごめく、理性なきサルやゾンビのような存在に、
このブログが一つの教訓として機能すれば幸いである。

「二重行政の無駄」を疑え!

大阪府知事市長ダブル選の投票日が、明日に迫った。
大阪都構想の是非が争点となっているが、「大阪の再生には都構想実現
しかない」と議論が単純化されているのが非常に気になる。
大阪府・市の赤字財政の原因が「二重行政の無駄」だけだとはとても
思えず、都構想にかけるカネがあるならさっさとバブル期の「負の遺産」を
処分して欲しい
と思う。
そもそも「二重行政の無駄」というのが、フレーズとしては理解出来るが
実態がどうなっているのかさっぱり分からない。
確かに相応のコストはかかっているだろうが、億単位の予算をかけて
行政システムを変革しなければならないほどのものなのだろうか。


実は維新は都構想に先駆けて、「二重行政の無駄」を解消する、という
名目である「変革」を既に行っている。
それが大阪市立住吉市民病院の閉鎖である。
この病院は101床の小児科と産婦人科を有していただけであったが、
10代のシングルマザーや未受診妊婦の出産など福祉的ニーズの高い
ケースを積極的に受け入れ、家族付添いなし入院や重症心身障害児の
短期入所の機能を併せ持っていて、社会的に弱い立場にある市民に
とっては、なくてはならない医療機関だった。
廃止された理由は、2キロ東に大阪府立急性期・総合医療センターが
あったためである。
近接した地域に、市立と府立の医療機関が存在するのは
「二重行政の無駄」だ、という理屈
だった。


しかし、市民は不便を強いられることになった。
同センターには母子医療センターが新設されたが、住吉市民病院と
同等の福祉的機能はない。
重症心身障害児の短期入所には46人が登録しており、
2017年度は延べ510日利用されていたが、住吉市民病院閉鎖後は
同センターに1床、都島区総合医療センターに1床で受け付けられるのみ
となり、設備上の大きな不安が残った。
そもそも、東西の交通の便が悪い地域では、妊婦や子供を連れた母親が
2キロの距離を移動するのは大変な負担である。


当然のごとく市民からは「閉鎖反対」の声が上がり、市議会では
2013年3月に「跡地に民間病院を誘致する」という付帯決議を可決した。
ところが、市長の吉村洋文は3度にわたって誘致に失敗
代わりに大阪市立大学医学部付属病院を跡地に誘致する方針を示すが、
まだ結論は出ていない。
暫定的に「市立住之江診療所」が開設されはしたが、外来のみで入院や
短期入所のニーズには対応できない。
つまり、市民にとって非常に大切な医療機関が、「二重行政の無駄」という
理屈で一方的に閉鎖され、その後のニーズを穴埋めできずにいるのだ。

(以上、維新政治の失敗〜住吉市民病院〜 | 都構想ポータル|立憲民主党大阪府連
参照 )



そもそも市民の健康や生命を守る病院を、そんな簡単に閉鎖して
よいものだろうか。
「二重行政の無駄」を謳うのはよいとしても、その矛先がまず公共施設に
向くというのはどういうスタンスなのだろうか。
そして橋下徹の「官より民」というスローガンに染まりつつも、
それが全く容易なものではない、ということも実証されている。


公共施設にメスを入れる、という意味においては、大阪府立大学
大阪市立大学の統合
も気になるところだ。
少子化で学生数が減少しており、大学の統合は現在の潮流であるため、
こうでもしないと府大と市大が共倒れになりかねない、という指摘は
存在する。
しかし、そもそもはやはり「二重行政の無駄」という観点から、
2つの大学に補助金を拠出することを見直すために、統合という方策が
打ち出されたのである。
特に大阪市立大学は、あの五代友厚を始めとする大阪の財界人が
中心となって創設された「大阪商業講習所」に端を発し、
旧三商大」として名を連ねる「旧制大阪商科大学」へと発展した歴史
がある。
このような伝統ある教育機関を、かくも簡単に統合して名を無くしても
よいものだろうか。


どうも「二重行政の無駄」を掲げて行われる「変革」は、
目に見えて分かりやすいところにばかり矛先を向けているように思える。
「官」に対する不信というものが定着してしまったばかりに、
公共施設も無駄を抱えているもの、というイメージに乗っかり、
市民受けする「変革」に打って出ているのではないだろうか。
しかし、そこを必要としている当事者にとってはたまったものではない。
内実を無視し、「無駄を排する」というパフォーマンスに走っている、
と疑ってしまう。


もし本当に「二重行政の無駄」を解消するというのであれば、
それは市民の目に見えづらい「地道な改善」から進められるはずだ。
安易に大なたを振るう行政には、大いに警戒すべきだろう。

「都構想」イデオロギーを疑え!

統一地方選に先立ち、大阪府知事選・市長選が公示された。
大阪維新の会大阪都構想実現のため、再度の住民投票の実施を提案するも、
府議自民党公明党もそれに賛成しないため、しびれを切らして民意を
問うべく、府知事と市長がポストを入れ替えて立候補する、という異例の
選挙戦に打って出た。
もちろん、ツッコミどころ満載である。
近所には「都構想やる」というバカでかい文字だけが書かれたポスターが
貼られてある。
「都構想の実現へ」とか「都構想を目指す」ではなく、端的に「やる」と
表現しているあたりに、維新の前のめりな姿勢がうかがえる。


松井一郎は、前回のダブル選挙で都構想の再挑戦を訴えた自分たちが
当選したのだから、「都構想は信任を得ている」「住民投票を行わないのは
約束を違えることになる」
と主張し、今回のクロス選挙には充分に大義
ある、と訴えている。
問題のすり替えが著しい。
松井一郎と吉村洋文の当選は、必ずしも都構想再挑戦が支持されたから
ではないだろう。

住民投票での否決を受けて、橋下徹は約束通り引退したのだから、
再挑戦は現実的ではないだろうが、党として維新は支持する、
という有権者は多かったと思う。
もちろん、再挑戦への思いを託した有権者もいただろうが、この選挙結果
だけをもって「都構想は信任を得ている」と判断するのは無理がある。


そして実際に候補者同士の論戦が始まってから感じるのは、
維新は自分たちを「抵抗勢力に阻まれながらも、正しいことをやろうと
戦っている」と印象づけていることだ。
都構想の具体的なメリット・デメリットよりも、「印象」だけを
訴えている。
このままではかつてのような赤字だらけの大阪に戻ってしまう、
府と市がいがみ合っていては大阪は沈んでしまう、という脅しとも
とれるようなイメージ戦略を展開している。
冷静に考えれば、それを解決するのは都構想だけなのか? 他の方策で
低コストで解決することは可能ではないのか? という疑問がわいてくる
のだが、維新はそういう「他の選択肢の模索」には一切触れない。

何故ならば、「都構想実現」が党是だからだ。
理由や動機付け、プロセスはどうでも良く、とにかく「都構想実現」の
ために存在しているのが維新という政党
なのだ。
それは、橋下徹が言い出した「大阪都構想」を中心にして誕生した
政党だからなのだろう。
これでは左翼イデオロギーを党是とする共産党社民党とさほど
変わらない。
その橋下徹が引退し、柱となるカリスマが失われ、振り上げた拳を
収めることもできずに暴走しているのが、今の維新なのだと思う。


ただ、維新の党としての姿勢を批判するだけでは、不充分だ。
大阪都構想の是非について、もう少しシビアに考えてみなければ
ならないだろう。
私が感じているのは、以前にも書いたことであるが、
本当に都構想を実現せねばならないほど、二重行政の無駄というものは
膨大なものなのか?
という疑問である。
何しろ、万博開催の決定で1000億円以上の建設費が見込まれ、
半官半民の大阪メトロは延伸工事を行い、近場に巨大な商業施設を
建設する計画まで立てている。
さらにIR誘致のために、目玉が飛び出るような超豪華な事業計画も
発表している。
一体どこにこんなお金があったのか、訝しく感じてしまう。
こうした「投資」の効果は一時的なものではないか、とも思うが、
それについてはここでは論じない。
重要なのは、二重行政の無駄はこうした「投資」よりもはるかに
少額なものであり、わざわざ改革するためのコストを考慮すると、
現状のままでその都度小さな改善を積み重ねるだけで対応可能な
ものではないか、
ということだ。
そういう意味では、今回の選挙で対抗している自民党らが提唱する
「総合区」案も、そのまま受け入れて良いかどうか考えてみなければ
ならない。
無駄は存在するだろうが、「都構想」のような大それた改革を
要するものなのかどうか、ということだ。


そして、「大それた改革」というものは、「公」を預かる行政に
際しては慎重でなくてはならない。
3月26日(月)の毎日新聞に、上山信一・慶応大教授の以下のような
コメントが掲載されていて驚いた。
「ビジネスの世界では一度何かに失敗したら諦めるなんてあり得ない。
スコットランドでも100年以上粘り強く、自治権拡大運動をしており、
維新が住民投票に再チャレンジしても問題ない。(後略)」

学者ともあろう人間が、何とビジネスと行政を同一視しているのだ。
お笑い芸人のたむらけんじも、都構想について「いっぺん、やってみたら
ええと思う」
と言っているが、それも経営者としての視点だろう。
民間企業は失敗しても、その損失は基本的には自分たちが被るだけである。
しかし、行政はそうはいかない。
「やってみて、ダメだった」などという言い訳は通用しないし、
あってはならないのだ。

だからこそ、スコットランドの運動は100年以上にもわたって、
議論と交渉を重ねているのではないのか(この点は私は詳しくないが)。
どうやら小泉純一郎橋下徹らの影響で、「公」と「民」の区別が
分かっていない人間が増えてしまったようだ。


長くなったので、まとめておこう。
大阪都構想」は、行政の枠組みを変える大改革である。
失敗すれば大阪の致命傷にもなり得る。
だからこそ、そのメリット・デメリットを慎重に議論しなければ
ならない。
議論は民主主義の基本である。
そのような大改革を、「印象」で語って押し通そうとする言論には
警戒せねばならない。
私自身は「大阪都構想」には反対だが、ここでそれを声高に主張しようと
いうわけではない。
考えるのは、有権者各々である。
その際に、「公」の問題において、果たしてこのような拙速なプロセスが
容認できるものなのかどうか、じっくり考えていただきたい。

過剰な「自粛」は「潔癖社会」または「ムラ社会」

ピエール瀧が薬物所持で逮捕されたことによる「自粛」が恐ろしいことに
なっている。
ワイドショーで知った限りでは、以下の「自粛」が行われている。
大河ドラマ『いだてん』放送シーンカット(再放送時)
・『いだてん』全シーン撮り直し(今後の配信・メディア化を考慮)
・朝ドラ『あまちゃん』の放送中止
・その他NHK出演作品のオンデマンド配信停止
電気グルーヴのCD・DVDの出荷停止
電気グルーヴの結成30周年記念ツアー中止


容疑者として勾留されている以上、現在進行形である『いだてん』や
コンサートツアーに出演することは不可能なので、これらにおける
対処は致し方がない。
過去のシーンも撮り直す、というのも、作品における一貫性をもたせる、
という意図があるのならば理解は出来る(見る側がそこまでこだわるか、
はともかくとして)。
しかし、それ以外は明らかに過剰な「自粛」である
まるで、「うちはここまで自粛しますよ。それぐらい、犯罪に対しては
シビアに対応する体制をとっていますよ」
ということを、アピールして
いるかのごとく。


あまちゃん』の音楽を担当していた大友良英氏は、Facebook
以下のように書いている。
「やはりどう考えても「あまちゃん」後編の放送自粛は良くない。
再放送が三陸鉄道リアス線開通祝いのためにあること。
犯した罪を裁くのは司法であるべきで番組の自粛では何も解決しないこと。
そもそも一個人の問題であり番組が連帯責任を負うべきものではないこと
などが理由。どうにかならないものか。」

楽家坂本龍一氏もTwitterで以下のようにツイートしている。
「なんのための自粛ですか
電グルの音楽が売られていて困る人がいますか?
ドラッグを使用した人間の作った音楽は聴きたくないという人は、
ただ聴かなければいいんだけなんだから。音楽に罪はない」

つまり、作品そのものには罪はないのだから、その価値を享受できる
環境は維持されていてしかるべき、個人の罪と連動させるな、という
ことになる。


私もこの考えに100%賛成である。
嫌なら見ない・聞かない、という選択肢が許されているのだから、
強要ではない。
しかし、放送中止や出荷停止という対応は、作品を楽しみたい、と
考える人間の選択肢を奪ってしまう。
何より、作品の価値よりも「ピエール瀧を世に出さないこと」の方を
NHKSME(レコード会社)は重視している、と解釈されても仕方がない
対応である。

「震災復興のシンボルとしての三陸鉄道開通」や「30年間に渡って
支持され続けてきた画期的なテクノポップ」よりも、ピエール瀧
世の中から一時的にでも抹消してしまうことを、NHKSME
選んだのだ。
私はこの判断は、「公」に反している、と思う。


今朝の『モーニングショー』では、この「自粛」に対して世間では
賛否両論、と伝えていた。
賛成意見として、ピエール瀧の姿を見ると「ああ、薬物やってたんだな」
と感じながら見るようになるから、とか、巨額の賠償金が薬物使用の
抑止力になるから、というものがあるらしい。
後者は話にならない。
どれだけ厳しい刑事罰が設けられても、世の中から犯罪がなくならない
のは自明の理で、賠償金が巨額だろうが、すぐさま実刑判決になろうが、
それで抑止力にはなるはずがない。
前者のような意見は、少数派だと思う。
というよりも、世の中が健全であるためには、こういう意見は少数派で
なくてはならない。
何故ならば、潔癖な社会こそが不健全であり、人間はそれに耐えられない
からだ。
猥雑、煩悩、いかがわしさ、邪な部分をある程度併せ持っているのが
人間であり、それが容認される社会こそが健全なものである。

出演者個人の犯罪やスキャンダルなどをいちいち気にかけて、
「まっさらな人間しか、世に出るな!」とヒステリックな声を上げる
ことこそが、人間社会を窒息状態に陥れるのだ。


そもそも、海外のミュージシャンに目を移せば、薬物使用者など
山のように存在するではないか。
ジョン・レノンジョージ・ハリスンキース・リチャーズ
薬物使用者だった。
ホイットニー・ヒューストンは薬物が原因で亡くなったし、
レディー・ガガも過去の薬物使用を告白している。
ジャズミュージシャンともなると、1950年代は薬物使用のバーゲンセール
である。
チャーリー・パーカーバド・パウエルマイルス・デイヴィス
チェット・ベイカービル・エヴァンスなど、そうそうたるビッグネーム
が、麻薬に溺れながら傑作を遺している。
彼らが評価されているのは、「薬物使用が氾濫していた時代で、仕方が
なかったから」ではない。
薬物使用とは別に、ミュージシャンとしてその演奏や作品が評価されて
いるだけのことだ。

本人の犯罪歴、スキャンダル、性格など、全く関係ない。
マイルス作品を始め、ジャズアルバムも多く手がけるSMEが、こうした
割り切りが出来ないのは誠に嘆かわしい。


今回の「自粛」は、欧米人にとっては理解不能だろう。
「価値」「成果」「才能」の評価を、それ単体で行えない、
本人の身辺込みで善し悪しを判断する、というのは、
山尾志桜里議員の「不倫疑惑報道」を思い出す(結局、アレは全くの
嘘っぱちだったが)。
日本の「ムラ社会」ぶりが、ここでまた露わになった。


ちなみに、性暴力犯罪で逮捕された俳優の新井浩文に関しては、
少しシビアに判断すべきだろうとは思う。
被害者女性は、新井浩文の顔を見るだけでPTSDの症状を示す可能性が
あるし、その他同様の性的な被害を経験した女性も、何らかの不快感や
拒絶反応を示すかもしれない。
性犯罪は問答無用で一線を画しておかなければならないと思う。

「値上げ」「バイトテロ」の根本は「少子化」!?

あくまで素人として想像しているだけなのだが、「少子化」を放置してきた
ツケがここにきて噴出しているのではないだろうか。
つまり「人手不足」という社会問題である。
政府はその対策として付け焼き刃的に「移民政策」を強引に押し通したが、
ここではそれについては取り上げない。
現に発生している「これは人手不足が原因ではないか」と思われる
問題について、少し述べてみる。


この3月から、一部の食品の値上げが実行された。
値段据え置きのものでも、目に見えて量が減らされているため、
実質値上げというものもある。
これはマスコミの報道では、「原材料費の高騰のため」と説明されている。
しかし、これだけでは素直に納得できない。
地球温暖化をはじめとする異常気象に見舞われることは多いが、そこまで
生産高が落ちているものなのだろうか。


私はここに「人手不足」という要因が存在するのではないか、と
推測している。
「原材料費」というものを広く「生産コスト」ととらえ、人手不足の
ために生産や加工を効率よく行うことが難しい状況にあるのではないか、

ということである。


もちろん、第一次産業第二次産業において、機械化が進んでおり、
場合によってはAIの導入で人手不足を補えているケースもある。
しかし、全ての生産者や加工業者がそれらを導入しているわけではないし、
手先の作業や商品の選別など、人間でなければ対応できない部分も
まだまだ多い。
こうして生産効率が従来よりも、「少しだけ」ダウンする。
あくまで「少しだけ」である。
しかし、需要は全く変わらない。
下手をすれば、国産品志向が強まって、需要が高まっているのかも
しれない。
だとすれば、当然ながら需給関係から値段は上がらざるを得ない。


ちなみに、農産物や食品に関しては、EPAの影響や種苗法の撤廃など、
他にも様々な要因が存在するとは思うが、それらに関しては全くの
知識不足なので、ここでは言及しない。


もう一点、実はこれも「人手不足」に起因しているのでは? と
思える問題がある。
それが昨今、ワイドショーでも大きく取り上げられた「バイトテロ」だ。
コンビニや飲食店で、アルバイト店員が不適切動画を撮影し、
仲間内に見せる目的でSNSに投稿した、という案件が相次いだ、と
いうものだ。
マスコミは「非常識な振る舞い」を批判すると供に、「SNSの拡散に
対する若者らの認識の甘さ」を指摘していたが、それだけでは不充分だと
感じていた。


何故、現場に社員・店長・チーフといった責任者クラスの人間が
いなかったのか?
「非常識な連中」だけに店を任せて、放置していたのは何故なのか?


断っておくが、動画撮影をしたアルバイト店員らを擁護するつもりは、
一切ない。
自分たちの行為がやってはならないことだ、いうことぐらい、常識的に
判断できなくてはならない。
ただし、いかに客の少ない時間帯であったとはいえ、下っ端アルバイトに
全面委任してしまう体制というのはどうなのか。
現場の規律を糺す、という観点からすると、当然ながら責任者クラスの
人間が最低1人は配置されていてしかるべきである。

人間は律されなければ、どんどん怠けてしまう生き物である。
責任感が弱い人間だけの集団になると、どんどんタガが緩んでくる。
その結果が極端なかたちになって現出したのが、一連の不適切動画
ではなかろうか。


しかし、責任者クラスの人間を常時配置する、という体制をとることが
現実的に困難である、という状況がこの問題のもう一つの側面である。

そして、その根本にあるのが「人手不足」なのではないだろうか。
一昔前ならば、学生であっても優秀なバイトリーダーとなっていた人材は
多かったため、そもそも社員が直接出向く必要すらなかったろう、と思う。
だが、ここまで「少子化」が進行してしまうと、そういった優秀な人材は
必然的に少なくなってしまう。
かといって、社員や店長が出突っ張りになるわけにもいかない。
何しろ、コンビニも外食産業も、少しずつかたちを変えながらも
出店数は増えこそすれ減ることがないからだ。
本来ならば経営の縮小を図りたいところだが、それは会社全体に
大きな損失を与えかねない。
そうして無理矢理に回転させ続けた結果、その矛盾が風紀の乱れに
繋がってしまったのだろう。


このように考えると、「人手不足」のため需要に対して供給の側が
全く追いついていない、
という状況が見えてくる。
つまり、「人手不足」をもたらした「少子化」は、国の産業を衰退させ
かねないぐらいの大問題なのだ。

政府はこれに対して、何ら対策を講じてこなかった。
安倍晋三も「少子化国難」と言って衆議院を解散したが、
相変わらず何もやっていない。
麻生太郎は「産まない方が悪い」と発言し、伊吹文明はそれを支持
している。
庶民が安心して子作り・子育てが出来る環境が整わないと、この国の
未来は暗いままである。
この問題に着手し、希望を見せようとする政治家は現れるだろうか。

安倍晋三はシナの左翼!?

安倍晋三が党大会で言い放った「悪夢のような民主党政権という表現が
問題視されている。
国会でかつての民主党代表だった岡田克也氏が、「取り消しなさい」と
詰め寄ったが、安倍晋三
「取り消しません。私にも言論の自由があるので」
と言って、撤回を拒んだ。
まともな「保守」ならば、安倍晋三はシナの左翼ではないか、と
思ってしまうだろう。


前政権を貶めて、現政権の正当性をアピールするのは、前近代までの
シナの発想である。

シナでは王朝が交代すると、関係する一族郎党を皆殺しにする。
そして、前王朝の皇帝に「哀帝」「末帝」などとネガティブなイメージの
名前を付けて、徳を失っていたことを表現する。
易姓革命の正当性をアピールするためだ。
「公」の概念が希薄であるため、前王朝との比較でしか、
現王朝の正当性を担保できなかったものと思われる。


「悪夢のような民主党政権」という発言は、こうした発想に近い。
そもそも歴代首相が、前政権の悪口を言ったような例は、ちょっと
思いつかない。

日本人には日本人なりの「美徳」を備えていることが当たり前だし、
行政は「公」の存在であるべし、という考えが強ければ、
前政権と比較する必要がない。
現政権が「公」に近いかどうかを考慮すればよいからだ。
「公」の概念が欠如している安倍晋三の脳内は、シナの発想で
満たされている。


さらに「言論の自由」を権力者が主張するのは、全くのお門違いである。
恐らく憲法第21条「集会・結社・表現の自由」の条文に基づいて
発言しているのだろう。
しかし、これは言うまでもなく国家権力が国民の「集会・結社・表現」に
圧力をかけることのないように、その自由を保障しているものである。
権力側が「言論の自由」を振り回すのは、憲法の精神から外れている。
「権力者としての安倍晋三」の発言に圧力をかけられる権力が
存在しないからだ。

安倍晋三成蹊大学憲法学のゼミを受講していたらしいが、
きちんと勉強していたのだろうか。


では、何故、安倍晋三を左翼扱いするのか。
こうしたトンデモ発言をしてしまうのは、「自由」の価値を極大に
信奉しているからではないか、と考えるからだ。
もっと言えば、人間は生まれながらにして「権利」を有している、
という「自然権」という考え方を支持しているからではないか、と
推察できるからだ(安倍晋三は「自然権」という言葉すら知らない
だろうけど、漠然と「それらしき考え」に則っている可能性はある)。
「保守」は「自然権」など存在しない、と考える。
自然権」の存在を主張するのは、左翼だ。

国家の枠組みに関係なく、全地球市民は「権利」を有する、と
考える。
そこから平等主義、博愛主義、ヒューマニズムという左翼特有の
イデオロギーが誕生する。
「保守」は国家権力がまともに機能していて、はじめて憲法
国民の権利を保障できる、と考える。
安倍晋三は、憲法の精神を理解もせずに、「自由」だけを振りかざす
エゴイストである。
そこだけを取り上げれば、左翼の資格が充分にあるのだ。


誤解なきように言っておくが、これはあくまで誇張した上で
揶揄しているだけである。
言論の自由」以前に、「公人」としての発言が不適切だった、と
認めるべき、というのが常識的な反応である。
これを「言論の自由」を盾にして撤回を拒んでよいのなら、
今村元復興大臣の「東北だから良かった」とか、桜田五輪担当大臣の
「がっかりだ」といった問題発言も撤回しなくて良いことになる。
韓国の国会議長の「慰安婦問題は天皇が謝罪すれば、すぐに解決する」
という発言も、「言論の自由」で保障されていることになる(韓国の
憲法の中身は知らないが)。
それぐらい、安倍晋三の発言が荒唐無稽で、およそ日本人の感覚とは
かけ離れたものだということである。

「決める政治」の危険性

Eテレの『100分de名著』で、スペインの哲学者・オルテガ
『大衆の反逆』が取り上げられている。
いずれは読んでみたいと思っていた古典的名著だったので、
見てみた。


オルテガは「庶民」と「大衆」を区分し、近代においては均一化された
「根無し草」の「大衆」が大量に生み出され、「超民主主義」という
状態に陥る、としている。
「超民主主義」というのは、多数派が少数派の意見に耳を傾けることなく
ばっさりと切り捨ててしまい、そんな多数派を大衆が熱狂的に支持している
という状態である。

今の日本に通じるところがある。


番組では政治学者の中島岳志氏が解説を担当している。
中島氏はオルテガの思想に則り、「民主主義というものを公正に
運用するのは面倒なものなのだ」
と説明していた。
全くその通りだ。
民主主義は単純な多数決ではない。
多数派が少数派の意見を汲み取り、議論を重ねて公共性の高い結論を
見出さなければならない。
下手をすれば、結論が先延ばしになってしまうこともある。
市民からは批判されることにもなるだろう。
「会議は踊る、されど動かず」のような状態は問題外ではあるが、
慎重な議論を重ねていても報われない、という局面は過去にも
多数存在しただろう。


ここで私が訴えたいのは、「決められない政治」は必ずしも悪ではない、
ということだ。
安倍晋三は先日の党大会で、旧民主党政権を「決められない政治」と
批判し、安倍政権の「決める政治」の重要性をアピールしていた。
しかし、「決める・決められない」だけで、行政の善し悪しを判断
してはならない。
重要なのは「決めるプロセス」だからだ。


「決める」ことを最優先させてしまっては、議論のプロセスが
軽視されかねない。
実際、安倍政権下で可決された「共謀罪法案」「移民法案」などは、
明らかに審議不足であると批判されていた。
「今国会にて成立」ありきの国会運営だから、多数派による「数の力」で
押し切ったのだ。


何故、そのような強硬手段に訴えたのか。
端的に言えば、上述の通り「面倒だから」だ。
少数派の理解を求めるためには、自分たちも相応の知識を身につけて、
納得できるように語ることが出来なければならない。
それだけ努力しても、結局は批判にさらされるかもしれない。
そんな面倒で報われないかもしれないこと、やってられないのだ。
だったら、強引に「決めて」しまって、自分の手柄を作ってしまった
方がよい。
国民に対しては、嘘八百を並べ立てれば良い。
正しい言論を貫くよりも、嘘をつき通す方がはるかに楽だからだ。


安倍晋三が、自身の「決める政治」をアピールしているのは、
こういう理由である。
中身がスカスカだから、「こういうことを決めた」という既成事実
だけを誇るしかない。
権力者による手柄自慢である。
誤解のないように言っておくと、決して民主党政権を好意的に評価
しているわけではない。
ただ、「決める政治」は民主主義の原則に反する危険性をはらんでおり、
それをアピールする権力者を安易に信用してはならない、と
いうことを主張しておきたい。


ついでに言えば、読書人口が減少し、それに伴って台頭してきた
ネトウヨ・ネトサヨという集団は「面倒になった大衆」そのものでは
ないか、と思う。
地道に知識を付け、学び、考えるのが面倒なのだ。
それよりも、「これは、こうだ」とパーンと結論を放てる方が
手っ取り早くてカッコイイ。
ネットならば、読む文章も短くて済む。
そんなネトウヨが安倍政権を支持するのは当然であり、ネトサヨが
幼稚な反応しか出来ないのも当然である。


学問に王道なし。
「保守」ならば、古来より伝わるこの言葉の意味を噛みしめるべし。