「外交成果」が中東に敵を作る

日本船籍のタンカーがホルムズ海峡で何者かに攻撃を受ける、
という事態が発生した。
今のところ詳細は不明であるが、アメリカは「イランの犯行」と
断定した声明を発表している。
ならばこれは「我が国の存立危機事態」ということではないのか?
アメリカのイージス艦が攻撃されても「存立危機事態」なのだから、
日本の民間船舶が攻撃されたのならば当然それに該当するだろう。
安保法制を適用し、集団的自衛権を行使して、アメリカと一緒に
イランと戦わなければならないのではないか?
安保法制国会で、あれだけ「ホルムズ海峡で自衛隊の命が危険にさらされる
ことはない」
と強弁していたのに、民間のタンカーが被害に遭ったのだから、
放置しておける事態ではないだろう。


イランと戦うって、つい昨日首脳会談が終わったばかりだぞ? と
お思いだろうか。
だったら、日本はアメリカの声明についての態度を早々に表明しなければ
ならないし、真相の追究や事態の打開についてイランとコンタクトを
とらなければならない。
イラン側の「我が国とは無関係」との主張を信じるのであれば、
アメリカの声明を信用しないということになる。

それをきちんと公言できるのか?


マスコミは事態の重大性を認識していないのか、もしくは認識している
からこそ深く踏み込みたくないのか、実にざっくりとした扱いで
終始している模様。
左翼コメンテーターが「安倍首相のイラン訪問に泥を塗るかたちになった」
と言うのが精一杯のところだった。


仮に今回の攻撃が、イランもしくは中東地域の武装勢力によるもの
だとしたら、それを誘発したのは安倍晋三のイラン訪問だろう、と思う。

そもそも日本が、アメリカとイランの緊張緩和に一役買って出る義理など
最初からなかった。
イランと日本は友好関係で結ばれており、民間の船舶がホルムズ海峡で
攻撃されることなど今までにはなかったからだ。
40年以上、日本の首相がイランを訪問していていなかったのは、
その必要がなかったのだ。
恐らく、中東情勢には日本は余計な口出しをしない、という不文律が
存在していただろうと思う。
その代わりに、ホルムズ海峡を安全に航行できていたのだ。
その良好なバランスを崩したのが、今回のイラン訪問ではなかろうか。


安倍晋三の意図は見え見えである。
選挙対策アメリカへの点数稼ぎだ。
それは日本国民だけでなく、イラン国民にも見え見えだったろう。
情報に聡い武装勢力であれば、なおのこと。
安倍晋三が「アメリカの手先」として、イランに対して「我々のボスである
アメリカ様の言うことを聞け」と余計な口出しをしに来たと感じられる
のは至極もっともである。

せっかくの親日感情を蔑ろにし、反米感情を募らせてしまったのが、
安倍外交である。


ところがマスコミは情けないことに、今回の首脳会談に「一定の成果」
があった、という事にしておきたいらしい。
両首脳の「反戦」や「非核」に言及した部分だけを強調し、
成功裡に終了したというイメージを強調している。
しかし、新聞に掲載されたイラン側の発言要旨を読むと、
そのイメージはまるで変わってくる。
ロウハニ師もハメネイ師も、友好国・日本に気を遣いながら、
うまく断定を避けた表現を用いている。

ロウハニ師:
「我々は戦争を追求しない。アメリカとの戦争も追求しない。
しかし、もしイランに対する戦争があれば厳しい答えを出す
「地域の緊張は、イランに対するアメリカの経済戦争が原因だ」


ハメネイ師:
「(イラン)イスラム共和国はアメリカを信頼していない
「自由で賢明な国は圧力をかけられた状況で交渉には応じない」
核兵器には反対するし、宗教令で核兵器製造は禁止されている。
しかし、我々に核兵器を作る意思があっても、アメリカは何もできない
だろう。

大量の核兵器保有しているアメリカが、どの国が核兵器保有すべき
だとか、保有すべきではないとか言う資格はない

読めば分かるとおり、「やられたら、やり返す」という姿勢であり、
アメリカに対する強烈な不信感を抱いているし、核兵器保有していない
とか作らないとは断言していない。

しかし、これを受けた安倍晋三の発言は、
「誰も戦争を望んでいない」
ハメネイ師からは、「核兵器を製造も、保有も、使用もしない。
その意図はない。すべきではない」との発言があった」

となっている。
勝手な解釈を加えて、ふわっとまとめ上げた感じだ。
一方で安倍晋三は「日本はイラン核合意を一貫して支持」とも発言
しているが、だったら日本はイランとアメリカのどちらの立場を
尊重するのだろう。
「いい人役」を演じる主体性なきコウモリに、不信感が向けられて
しまうのはこれまた至極もっともである。


今回のタンカーへの攻撃が、上で述べたことと関連があるのかどうかは
もちろん分からない。
しかし、これだけの問題をはらんでいるのは事実である。
ひょっとしたら、日本を敵視する中東地域の武装勢力がますます
増えてしまったかもしれないのだ。
やはり親日国家として有名なバングラデシュダッカで、日本人が
テロリストに虐殺された事件を忘れてはいけない。
安倍政権の対米従属姿勢が、あらゆるところにひずみを生じさせている。
マスコミは現実を直視した報道を心がけてほしい。

議論を拒みただ微笑みかける財務大臣

金融庁が発表した「老後の生活資金は公的年金以外に2000万円必要」
という報告書を、麻生太郎は「受け取らない」のだそうだ。
そして、これまでに見たことがないにこやかな表情で、
「国民に誤解と不安を与えるような報告書ですから」
と説明してみせた。
あの強面でふてぶてしい態度がデフォルトの麻生太郎が、笑顔で優しく
語りかける画。

なるほど、報告書の内容は的を射たものだったのだ、と実感できた。


もし、内容に誤解を招くものがあるのであれば、それを精査して議論
すればよい。

国会でも取り上げて議論してもよい。
それが民主主義というものだ。
しかし、麻生太郎は受け取りを拒んだだけではなく、何と報告書の
前文しか読んでいないことも発覚した。
中身を理解していないのに、勝手に誤解と不安を与える報告書と
断定してしまったのだ。
だったらお前が自力で試算してみろ、と思う。


二階俊博
「我々は選挙を控えている。候補者に迷惑がかからないように注意した」
と発言した。
つまり、数字の正確性よりも、選挙の勝利の方を優先させる、
言っているのだ。
驚いてしまう。


両者の言動から読み取れるのは、報告書を作成した有識者会議は
「結論ありき」として認識していたということである。
安倍政権が掲げる「人生100年安心」という社会保障政策を
裏書きするような報告を期待していたのだろう。

しかし、それが裏目に出てしまった。
安保法制国会で2人の憲法学者を招致し、2人供が「違憲」と回答した
のに似ている。


ただ、麻生太郎は当初は事態の重大さを理解していなかった。
囲み取材で記者達に対し
「俺が生まれたころの平均寿命はいくつだったか、知ってるか? 47(歳)。
(記者団を指さして)だいたい(寿命が)終わっているよな。
戦後53になって、この間まで81とか言ってたのが、100だってんだろ?
そうすると、人生設計を考えるときに100まで生きる前提で退職金って
計算してみたことあるか? 普通の人はないよ、多分。
いきなり100って言われて『あと20年間ゴルフ続けられるのか』って
『そんな体力ねぇな』とか『金がねぇな』とか考えるだろうから、
そういったようなことを考えて、今、きちんとしたものを、今のうちから
考えておかないかんのですよ

と、いつものようにふてぶてしく喋っていた。
ここから読み取れるのは、「2000万円必要」という報告をこの時点では
麻生太郎は受け入れていたのではないか、
ということだ。
しかし、その後マスコミや野党からの反発を受けて、たちまち火消しに
奔走した、というのが本当のところではないか、と思われる。


断っておきたいが、私は専門家ではないので、金融庁の報告書の内容を
評価できる知識はない。

専門家が2年間で12回に渡って議論を重ねて作成されたものなので、
相応に尊重すべき内容だろうと考えるぐらいである。
問題視しているのは、報告書の中身如何ではなく、それをろくに読みも
せずに「なかったこと」にしてしまい、選挙対策に腐心する政治家の
態度である。

安倍政権で何度も繰り返されてきた「議論拒否」だ。
今回はそのダメ押しとして、麻生太郎の笑顔が付いてきた。
権力者が国民に対して「安心して下さい」と微笑みかけることほど
恐ろしいものはない。
鈍感な人間にその恐ろしさが理解できるだろうか。
日本を人治国家にしてはならない。

ネット民には生産性がない

前回のブログ更新から1ヶ月以上も経ってしまった。
さすがに放置はまずいと思い、ちょっとした更新をさせていただく。


何故、更新が滞ったかというと、仕事が充実してきたからである。
忙しくもなってはいるのだが、同時にやり甲斐も感じているので、
完全に「人生の楽しみ」のメインに据えられるようになった。
そうなると、ブログ更新は日常生活における優先順位としては、
下位に落ちてしまう。
仕事をよりレベルの高いものにするため、自助努力としていろいろな
ことに時間を割き、そして趣味にも興じていると、ブログを書いている
時間がなくなってくるのだ。


一昔前、ネットで「リア充」「意識高い系」という言葉が流行った。
2ちゃんねるでは、「働いたら負けだと思っている」という退廃的な
AA(アスキーアート)も人気を博していた。
今思えば、これらはネット民の僻みに過ぎないと分かる。
私自身もかつては「そちら側」だったから、よく分かる。
ネットへの接続料だけで、他はノーコストで楽しめるネット空間は、
経済的にも気力的にも貧困層であるネット民にとっては、
この上ない楽園だったのだ。
その状態は、今もかたちを変えながらでも続いていると思う。


もし、仕事や家庭できちんとした居場所があり、「人生の楽しみ」や
「生きがい」を感じることができているならば、ネット民にはならない
と思う。

何故なら、マイナスの感情を募らせることが、この上なく無駄である
ということが分かるからだ。
ニュースについて憤りのツイートを投稿したり、他人のツイートに
噛みついたりといった行動は、極めて非生産的なものであり、
自分の「人生の楽しみ」「生きがい」の邪魔でしかない、ということも
理解出来ているはずだからだ。


ツイートという行為は「生産」に属する、と考えておられる方も
多いのかもしれないが、全くの誤りである。
ツイートは「消費」である。
目の前のネタ(エサ)に食らいついて、自分なりに満足感を得ようと
する行為だから、食事や買い物と同じようなものだ。
仕事や家庭できちんと「生産」をしている実感を得ている人間は、
それが分かる。
だから、SNSを利用するにしても、節度が守れるのだ。


だから、ネット上にはノイジーマイノリティによる罵詈雑言が
跋扈する。
それを見るのは「知の貧困層」であるネット民だから、ますます
バカが増幅する。
まともな「生産者」であるサイレントマジョリティは、そんなものは
見ない。
そもそも、関わっている時間がない。
そして、「生産の現場」で自分はしっかりと評価・承認されているので、
ネット上で「いいね」や「フォロー」にこだわる必要性がない。


さらに言うと、人間の脳はそこまでマルチタスクを得意としている
わけではない。
だから、仕事に本気で取り組んでいる時は、それ以外のことに頭が
回らないということがほとんどである。
つまり、SNSに首ったけな人間というのは、仕事に身が入らず、
ヒマであることが多いのだろう。

非生産的な消費活動という点においては、喫煙と同じようなものでは
ないか、という気がする。
まとまりがない文章ではあるが、ひとまずの更新ということで。

ネット民は「知の貧困層」である

前回のブログ記事にコメントをいただいた。
「ネットリテラシーの大切さ」について触れておられたので、
「ネットリテラシーはネットと距離を置かなければ身につかない」と
コメントをお返しした。
非常に重要なポイントだと思うので、あらためて本文で取り上げておきたい。


ネット世論に流されやすい、ネットリテラシーがない人間は、
ネット記事しか読んでいない。
ネット記事は玉石混淆であるが、その中でも石コロばかり追いかけている
のがネット民である。
だから、「本物の情報」と「ネット世論」を区別できないのだ。
「芸能人格付けチェック」というバラエティ番組で、1000円ワインと
10万円ワインを見極められるか、というような企画をやっているが、
1000円ワインばかり飲んでいる人間が確実にそれらを区別することは
不可能である。
日頃から10万円ワインやその他の一流品に接しているGACKTのような
人間でなければ、10万円ワインを「美味しい」と感じることは出来ても、
両者を見極めることは出来ない。

同様に、「ネット世論」ばかりに接していては、それが石コロである
ことにすら気付かないのだ。


ネット民は、テレビや新聞は「オワコン」だという。
私からすれば、「ワインは1000円で充分。万単位のワインなどオワコン」と
言っているに過ぎないように感じる。
それはそれとして、テレビや新聞は「本物の情報」に接するための
窓口である。
だからテレビや新聞に目を通さない人間は、「ネット世論」に流される
リテラシーがないネット民に堕落してしまうことになる。


いやいや、テレビや新聞は事業者によって内容に偏りがあるではないか、
自分でソースを選べるネットの方が必要な情報を得やすいではないか、
と言う方がおられるだろう。
ごもっともであり、昔の私もそのように思っていた。
しかし、偏りがあり、時に必ずしも自分が必要とはしていない情報も
流れるからこそ、テレビや新聞には価値があるのだ。
理由がお分かりだろうか。


「偏り」に関しては、自分の頭で考える余地が生じる、という良さが
ある。
そもそもネット記事だって偏っているのだが、圧倒的に情報量が少ない。
記事の主張や結論について、きちんと論理的な根拠が示されているものは、
仮にそれが左や右に偏っていようと、読む価値がある内容ということになる。
自分と異なる立場の思考回路が分かるからだ。

それを受けて自分の考えを振り返り、必要であれば微調整していけばよい。
その作業を死ぬまでずっと継続していくのが「保守」の本分である。


「必要とはしていない情報」に関しては、今回の池袋の事件に即して
指摘できることがある。
主にテレビのローカルニュースでは、一週間に2~3回は交通事故が
取り上げられている。
あれを見ていれば、特に興味がなくとも、警察がその都度どのような
対応をしているのか、漠然と理解出来る。
「上級国民」などでなくとも、被疑者が重傷で病院に搬送されていれば
逮捕に到らないケースが存在するということは、ニュースを見ている
人間にとっては常識中の常識なのだ。
つまり、「必要とはしていない情報」であっても、漠然と頭の中に
取り込んでいくことで、世の中の常識というものが身につくのである。

そもそも、自分にとって「この情報は不要」などと、そう簡単に
自分で判断できるはずがないではないか。
やっぱり必要だった、と思い直しても、それで石コロだらけのネットを
検索し、フェイクをつかまされるのでは目も当てられない。


この世の中、どんな情報が役立つのかなど、ピンポイントで指摘できる
はずがない。
これは情報化社会だからということではなく、遙か昔からそういうもの
だったと思う。
だから先人は、自身の知的好奇心のおもむくままに、書物と見聞で
知識を深めてきたのだ。

ネット界は、「これが今、役に立つ情報だよ」という分かりやすいエサが
あちこちにぶら下げられている環境である。
検索関連ワードやハッシュタグというものが普及してから、その傾向が
顕著になった。
これらに飛びついているだけの状況が、如何にバカバカしい、ひいては
危険な状態であるか、想像できるだろうか。
極論すれば、全てを分かっている「勝ち組事業者」が池に投げ込む麩を、
夢中でパクついている鯉
のようなものだ。
ネット民は麩で満足している貧困層なのだ。


このブログのタイトルは、かつてネトウヨであった自分を戒め、
きちんと勉強して「知の富裕層」へと駆け上がらなければならない、
という意識でつけたものだ。
同時に、多くのネット民も意識をあらためて「知の富裕層」を目指す
ようになってほしい、という願望の意味も込められている。
だから、このブログを読んで何かを感じとっていただいたのであれば、
即座にネットと距離を置いて、テレビ・新聞・本の世界へ回帰して
いただきたい。
このブログに依存するようなことは、絶対に避けていただきたい。

私がブログを更新しているのは、自己承認欲求などのためではなく、
よってアクセス数も全く気にしていない。
むしろ、このブログがもはや不要になるぐらい、自分の頭で物事を
考えられる人間が増え、「ネット世論」が陳腐化する世の中になることを
望んでいる。

そもそも私にとっては仕事の方がはるかに大事なので、ブログを更新
せずに済むのならばそれに越したことはないのだ。
出来ることならば、やめてしまいたい、とさえ思っている。
しかし、それでも続けようと考えているのは、ネトウヨとして
こじらせていた失敗を伝えておきたいと考えるからである。
それが私にとっての、せめてもの罪滅ぼしなのだ。

性的快感に取り憑かれているネット民

羽鳥慎一モーニングショー』で知ったのだが、池袋の暴走事故の容疑者が
逮捕されていないのはおかしい、元官僚だから特別扱いしているのでは
ないか、とネットで物議を醸しているらしい。
実にバカバカしい話だ。
番組でも伝えていたが、あの事件で容疑者も負傷しており、すぐに病院に
搬送されたので、逃亡や証拠隠滅の恐れがないのは明らかであり、
事件の解明には容体が回復してから取り調べをする方が良い、と判断した
から逮捕する必要がないだけである。
事情聴取が任意で行われている、という点に疑問を呈する向きも
あるらしいが、警察が「逮捕」という強制力を発動させていないので、
「任意」という表現になるだけだろう。


過失運転致死傷罪で警察は捜査しているのだから、警察内部での取り扱いは
「被疑者」である。
だから、マスコミが「容疑者」という表現を用いないのには違和感が
あるが、「容疑者」自体がマスコミ用語なので、何らかの内規が
存在するのだろう。
そこまで目くじらを立てることではない。
「上級国民」だから特別扱いしているのだ、というのは、
まさにゲスの勘ぐりというやつだ。
捜査が進めば、危険運転致死傷罪への切り替えだって有り得るだろう。


こういうことは、少し考えれば分かることだし、知らないことは
調べればよい。

ところが、ネット民はそれをしない。
一方的に「不謹慎狩り」をして楽しむ方を優先するのだ。


先日、中野信子著『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』
幻冬舎新書
という本を読んだ。
それによると、「不謹慎」や「不適切」を糾弾して得られる快感の
ことを、脳科学の用語で「シャーデンフロイデ」と言うらしい。
人間は組織や集団の秩序を保ちたいという本能がある。
そのため、その秩序を壊そうとする人間に対しては、憎悪の感情が
芽生える。
これは必ずしも犯罪行為に限ったことではない。
何らかの分野において優秀な能力を発揮する人間、あるいは大したことが
できるわけではないのに何故か他者から愛されてしまう人間などに
対しても、「妬み」の感情が高じることによって、糾弾の対象に
なってしまう。
そういう人間を引きずり下ろしたり、非難することによって、
自分の足下を固めておいて満足感を得る、というのが
シャーデンフロイデ」のメカニズムであるらしい。


本来、こうした糾弾や非難には、リスクが伴うものだった。
相手に対する攻撃は、下手をすれば自分に降りかかってしまう可能性が
あったからだ。
だから、そういったネガティブな感情が内部に湧いてきたとしても、
そう簡単に発露するものではなかった。
しかし、現在のネット環境はそれを変えてしまった。
匿名で発信できるので、自分が反撃されるリスクがほぼゼロだからだ。
もし自分が炎上したとしても、そのアカウントを削除してしまえば
それ以上のダメージを防ぐことが出来る。
アクセスブロックという手段もあるだろう。
そのため、SNSをはじめとするネット環境は、「シャーデンフロイデ」の
温床になってしまった。


池袋の事件に限らず、日々伝えられるあらゆるニュースに接して
「不謹慎狩り」を行うネット民は多い。
彼らは自分たちの秩序を守るために「不謹慎狩り」を行っている
のではない。

シャーデンフロイデ」の快感を得るためにやっているのだ。
その快感は、性行為で得られるものと同質なのだそうだ。
つまり、彼らは性的快感に取り憑かれて、「不謹慎」や「不適切」を
叩きまくっているのである。

まるで理性の無いサルではないか。


そういうお前はどうなのか? と問われることにもなるだろう。
このブログの最初の方で、かつて私はネトウヨぶりをこじらせていた、
と書いている。
それ以外にも数々の愚行を犯している。
今になって振り返れば、ネット環境、ひいてはパソコンという道具は、
きちんと自制しながら使用しないと、実に簡単に人間の理性という
ものを奪い取ってしまうものだ、ということを痛感させられる。


今後、折に触れて、自分の数々の失敗談を、このブログで紹介して
いく予定である。
匿名なので、恥を忍んで、というほどのことではない。
いまだネット界にうごめく、理性なきサルやゾンビのような存在に、
このブログが一つの教訓として機能すれば幸いである。

「二重行政の無駄」を疑え!

大阪府知事市長ダブル選の投票日が、明日に迫った。
大阪都構想の是非が争点となっているが、「大阪の再生には都構想実現
しかない」と議論が単純化されているのが非常に気になる。
大阪府・市の赤字財政の原因が「二重行政の無駄」だけだとはとても
思えず、都構想にかけるカネがあるならさっさとバブル期の「負の遺産」を
処分して欲しい
と思う。
そもそも「二重行政の無駄」というのが、フレーズとしては理解出来るが
実態がどうなっているのかさっぱり分からない。
確かに相応のコストはかかっているだろうが、億単位の予算をかけて
行政システムを変革しなければならないほどのものなのだろうか。


実は維新は都構想に先駆けて、「二重行政の無駄」を解消する、という
名目である「変革」を既に行っている。
それが大阪市立住吉市民病院の閉鎖である。
この病院は101床の小児科と産婦人科を有していただけであったが、
10代のシングルマザーや未受診妊婦の出産など福祉的ニーズの高い
ケースを積極的に受け入れ、家族付添いなし入院や重症心身障害児の
短期入所の機能を併せ持っていて、社会的に弱い立場にある市民に
とっては、なくてはならない医療機関だった。
廃止された理由は、2キロ東に大阪府立急性期・総合医療センターが
あったためである。
近接した地域に、市立と府立の医療機関が存在するのは
「二重行政の無駄」だ、という理屈
だった。


しかし、市民は不便を強いられることになった。
同センターには母子医療センターが新設されたが、住吉市民病院と
同等の福祉的機能はない。
重症心身障害児の短期入所には46人が登録しており、
2017年度は延べ510日利用されていたが、住吉市民病院閉鎖後は
同センターに1床、都島区総合医療センターに1床で受け付けられるのみ
となり、設備上の大きな不安が残った。
そもそも、東西の交通の便が悪い地域では、妊婦や子供を連れた母親が
2キロの距離を移動するのは大変な負担である。


当然のごとく市民からは「閉鎖反対」の声が上がり、市議会では
2013年3月に「跡地に民間病院を誘致する」という付帯決議を可決した。
ところが、市長の吉村洋文は3度にわたって誘致に失敗
代わりに大阪市立大学医学部付属病院を跡地に誘致する方針を示すが、
まだ結論は出ていない。
暫定的に「市立住之江診療所」が開設されはしたが、外来のみで入院や
短期入所のニーズには対応できない。
つまり、市民にとって非常に大切な医療機関が、「二重行政の無駄」という
理屈で一方的に閉鎖され、その後のニーズを穴埋めできずにいるのだ。

(以上、維新政治の失敗〜住吉市民病院〜 | 都構想ポータル|立憲民主党大阪府連
参照 )



そもそも市民の健康や生命を守る病院を、そんな簡単に閉鎖して
よいものだろうか。
「二重行政の無駄」を謳うのはよいとしても、その矛先がまず公共施設に
向くというのはどういうスタンスなのだろうか。
そして橋下徹の「官より民」というスローガンに染まりつつも、
それが全く容易なものではない、ということも実証されている。


公共施設にメスを入れる、という意味においては、大阪府立大学
大阪市立大学の統合
も気になるところだ。
少子化で学生数が減少しており、大学の統合は現在の潮流であるため、
こうでもしないと府大と市大が共倒れになりかねない、という指摘は
存在する。
しかし、そもそもはやはり「二重行政の無駄」という観点から、
2つの大学に補助金を拠出することを見直すために、統合という方策が
打ち出されたのである。
特に大阪市立大学は、あの五代友厚を始めとする大阪の財界人が
中心となって創設された「大阪商業講習所」に端を発し、
旧三商大」として名を連ねる「旧制大阪商科大学」へと発展した歴史
がある。
このような伝統ある教育機関を、かくも簡単に統合して名を無くしても
よいものだろうか。


どうも「二重行政の無駄」を掲げて行われる「変革」は、
目に見えて分かりやすいところにばかり矛先を向けているように思える。
「官」に対する不信というものが定着してしまったばかりに、
公共施設も無駄を抱えているもの、というイメージに乗っかり、
市民受けする「変革」に打って出ているのではないだろうか。
しかし、そこを必要としている当事者にとってはたまったものではない。
内実を無視し、「無駄を排する」というパフォーマンスに走っている、
と疑ってしまう。


もし本当に「二重行政の無駄」を解消するというのであれば、
それは市民の目に見えづらい「地道な改善」から進められるはずだ。
安易に大なたを振るう行政には、大いに警戒すべきだろう。

「都構想」イデオロギーを疑え!

統一地方選に先立ち、大阪府知事選・市長選が公示された。
大阪維新の会大阪都構想実現のため、再度の住民投票の実施を提案するも、
府議自民党公明党もそれに賛成しないため、しびれを切らして民意を
問うべく、府知事と市長がポストを入れ替えて立候補する、という異例の
選挙戦に打って出た。
もちろん、ツッコミどころ満載である。
近所には「都構想やる」というバカでかい文字だけが書かれたポスターが
貼られてある。
「都構想の実現へ」とか「都構想を目指す」ではなく、端的に「やる」と
表現しているあたりに、維新の前のめりな姿勢がうかがえる。


松井一郎は、前回のダブル選挙で都構想の再挑戦を訴えた自分たちが
当選したのだから、「都構想は信任を得ている」「住民投票を行わないのは
約束を違えることになる」
と主張し、今回のクロス選挙には充分に大義
ある、と訴えている。
問題のすり替えが著しい。
松井一郎と吉村洋文の当選は、必ずしも都構想再挑戦が支持されたから
ではないだろう。

住民投票での否決を受けて、橋下徹は約束通り引退したのだから、
再挑戦は現実的ではないだろうが、党として維新は支持する、
という有権者は多かったと思う。
もちろん、再挑戦への思いを託した有権者もいただろうが、この選挙結果
だけをもって「都構想は信任を得ている」と判断するのは無理がある。


そして実際に候補者同士の論戦が始まってから感じるのは、
維新は自分たちを「抵抗勢力に阻まれながらも、正しいことをやろうと
戦っている」と印象づけていることだ。
都構想の具体的なメリット・デメリットよりも、「印象」だけを
訴えている。
このままではかつてのような赤字だらけの大阪に戻ってしまう、
府と市がいがみ合っていては大阪は沈んでしまう、という脅しとも
とれるようなイメージ戦略を展開している。
冷静に考えれば、それを解決するのは都構想だけなのか? 他の方策で
低コストで解決することは可能ではないのか? という疑問がわいてくる
のだが、維新はそういう「他の選択肢の模索」には一切触れない。

何故ならば、「都構想実現」が党是だからだ。
理由や動機付け、プロセスはどうでも良く、とにかく「都構想実現」の
ために存在しているのが維新という政党
なのだ。
それは、橋下徹が言い出した「大阪都構想」を中心にして誕生した
政党だからなのだろう。
これでは左翼イデオロギーを党是とする共産党社民党とさほど
変わらない。
その橋下徹が引退し、柱となるカリスマが失われ、振り上げた拳を
収めることもできずに暴走しているのが、今の維新なのだと思う。


ただ、維新の党としての姿勢を批判するだけでは、不充分だ。
大阪都構想の是非について、もう少しシビアに考えてみなければ
ならないだろう。
私が感じているのは、以前にも書いたことであるが、
本当に都構想を実現せねばならないほど、二重行政の無駄というものは
膨大なものなのか?
という疑問である。
何しろ、万博開催の決定で1000億円以上の建設費が見込まれ、
半官半民の大阪メトロは延伸工事を行い、近場に巨大な商業施設を
建設する計画まで立てている。
さらにIR誘致のために、目玉が飛び出るような超豪華な事業計画も
発表している。
一体どこにこんなお金があったのか、訝しく感じてしまう。
こうした「投資」の効果は一時的なものではないか、とも思うが、
それについてはここでは論じない。
重要なのは、二重行政の無駄はこうした「投資」よりもはるかに
少額なものであり、わざわざ改革するためのコストを考慮すると、
現状のままでその都度小さな改善を積み重ねるだけで対応可能な
ものではないか、
ということだ。
そういう意味では、今回の選挙で対抗している自民党らが提唱する
「総合区」案も、そのまま受け入れて良いかどうか考えてみなければ
ならない。
無駄は存在するだろうが、「都構想」のような大それた改革を
要するものなのかどうか、ということだ。


そして、「大それた改革」というものは、「公」を預かる行政に
際しては慎重でなくてはならない。
3月26日(月)の毎日新聞に、上山信一・慶応大教授の以下のような
コメントが掲載されていて驚いた。
「ビジネスの世界では一度何かに失敗したら諦めるなんてあり得ない。
スコットランドでも100年以上粘り強く、自治権拡大運動をしており、
維新が住民投票に再チャレンジしても問題ない。(後略)」

学者ともあろう人間が、何とビジネスと行政を同一視しているのだ。
お笑い芸人のたむらけんじも、都構想について「いっぺん、やってみたら
ええと思う」
と言っているが、それも経営者としての視点だろう。
民間企業は失敗しても、その損失は基本的には自分たちが被るだけである。
しかし、行政はそうはいかない。
「やってみて、ダメだった」などという言い訳は通用しないし、
あってはならないのだ。

だからこそ、スコットランドの運動は100年以上にもわたって、
議論と交渉を重ねているのではないのか(この点は私は詳しくないが)。
どうやら小泉純一郎橋下徹らの影響で、「公」と「民」の区別が
分かっていない人間が増えてしまったようだ。


長くなったので、まとめておこう。
大阪都構想」は、行政の枠組みを変える大改革である。
失敗すれば大阪の致命傷にもなり得る。
だからこそ、そのメリット・デメリットを慎重に議論しなければ
ならない。
議論は民主主義の基本である。
そのような大改革を、「印象」で語って押し通そうとする言論には
警戒せねばならない。
私自身は「大阪都構想」には反対だが、ここでそれを声高に主張しようと
いうわけではない。
考えるのは、有権者各々である。
その際に、「公」の問題において、果たしてこのような拙速なプロセスが
容認できるものなのかどうか、じっくり考えていただきたい。